『勝谷誠彦を偲ぶ会』開催!12/26東京&1/18神戸&3/2大阪!盟友や著名人のコメント・追悼文など

KJ
2018年11月28日木曜日、コラムニストの勝谷誠彦さんが57歳の若さでこの世を去りました。

KJは長い間、勝谷さんの文章やメディアでの活躍を追い続けてきただけに、今は大きな喪失感と深い悲しみに支配されています。

勝谷さんの盟友の皆さんが送られた惜別の言葉をまとめ、ここに哀悼の意を表したいと思います。

目次

コラムニスト勝谷誠彦さんが死去

勝谷誠彦は11月28日に死去いたしました

勝谷誠彦は、2018年11月28日午前1時48分、生まれ故郷の尼崎で57歳の生涯を閉じました。

生前、応援していただきました皆様、お世話になった皆様に厚く御礼を申し上げます。

どうもありがとうございました。

死因:急性肝不全

8月21日(火):緊急入院。「劇症肝炎」「重症アルコール性肝不全」の診断。

8月22日(水):『勝谷誠彦の××な日々。』初の休筆。慶応大学病院へ転院。

9月8日(土):『勝谷誠彦の××な日々。』復活。

10月9日(火):慶応大学病院退院。

10月20日(土):第12回尼崎市民医療フォーラム『100歳時代の生き方、死に方 ~バラ色の人生~』コメンテーター。

10月30日(火):尼崎で入院。

11月6日(火):FM香川『怒れるおっさんラジオ』収録。

11月8日(木):慶応大学病院へ転院。「肝性脳症」

11月18日(日):『勝谷誠彦の××な日々。』にて隠れ呑みを示唆。

11月21日(水):慶応大学病院と弟・友宏氏による協議。

11月23日(金):『勝谷誠彦の××な日々。』最後の執筆。勝谷医院へ転院。

11月26日(月):容体悪化。

11月27日(火):急変。

11月28日(水):急性肝不全により死去。

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「勝谷誠彦を偲ぶ会」

東京編

日時

12月26日(水)17時開場~21時半(受付は20時終了)

場所

東京麺通団
東京都 新宿区 西新宿 7-9-15 ダイカンプラザ ビジネス清田ビル1F
公式サイト
http://www.mentsu-dan.com/

会費

3,000円(飲み放題、うどんつき。献花のみの方は会費はいりません)

・店内には遺品類の一部や写真を展示し、奥ではトークコーナーを設けます。プロジェクターによる映像投影(音声無し)も行う予定です。
・入り口に献花台を置きますが、花は特に用意しないので、献花を希望される方はご自身でお持ちください。
・高橋ヨロンは17時から終了まで、T-1君は18時ごろから終了まで滞在。他に勝谷誠彦ゆかりの方もお呼びする予定です。
・店内では椅子が用意されますが、基本的に立食となります。
・飲み物にはソフトドリンクもつきます。
・うどんの種類は限定しませんが、納豆が好きであれば、勝谷による商標登録の「ねばたま」をお勧めします。
・店内の様子はライブ配信されます。

YouTubeLive
https://www.youtube.com/watch?v=8h4p3b8omAM

FacebookLive
https://www.facebook.com/katsuyamasahiko/videos/213594069586709

関西編

日時

1月18日(金)17時開場~21時頃(受付は20時終了)

場所

喫茶オーシャン
兵庫県神戸市兵庫区駅前通4-2-1
https://retty.me/area/PRE28/ARE99/SUB9902/100001298283/

会費

3,000円(飲み放題、軽食つき。献花のみの方は会費はいりません)

・基本は東京と同じ形式にして、入り口に献花台を置きます。
・つまみ程度の軽食をお願いしていますが、人数によっては足りなくなることもあるので、あらかじめご了承ください。
・お酒は持ち込み可とします。差し入れ歓迎。

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勝谷誠彦さん追悼番組 カツヤマサヒコSHOW

動画

出演

メインMC

勝谷誠彦

アシスタント

榎木麻衣(サンテレビアナウンサー)

ゲスト

花房観音(官能小説家 番組に4回出演)

桜井博志(「獺祭」旭酒造 会長)

撮影地

たこ焼きバー たこまる(尼崎・立花)

放送日

2019年1月13日(日)25:00~25:55 放送

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盟友の追悼コメント

高橋茂(世論社代表取締役・ネット選挙コンサルタント他/「勝谷誠彦たちのxxな日々。」発行者”ヨロンさん”)

勝谷誠彦追悼 酒と戦わずして命奪われたコラムニスト 最後まで寄り添った盟友が明かす「辛口コラムニスト」の生き様

なぜ勝谷誠彦は取り憑かれたように酒を求めたのか 続・最後まで寄り添った盟友が明かす「辛口コラムニスト」の生き様

勝谷誠彦が安倍首相の要請を断って知事選に出た理由 続々・最後まで寄り添った盟友が明かす「辛口コラムニスト」の生き様

東良美季(ライター/”トーラさん”)

友よ、あの世で飲もう。

花田紀凱(月刊Hanada編集長/文藝春秋時代の上司)

通夜

『本当に早すぎる…。実は繊細で寂しがり屋。特に前の奥さんと別れてからは酒に逃げてしまったのかな。柔らかいものから硬いものまで、何でも書ける。原稿が早くて面白い。彼に任せておけば大丈夫という安心感もある、部下として非常に優秀な書き手だった』

『とにかく徹底的に取材するタイプだった。写真誌「Emma」時代には、甲子園球児を取材し、夜に宿舎を抜け出して、たばこを吸っている記事を送ってきた。粘り強く取材していた』

『実際は繊細で気が小さく、寂しがり屋。自分を強く見せようと、わざと無理をしていた部分もある』

『かつてのユダヤ人になぞらえて、国を失った日本人がどのように生きていくのかという小説。結構な分量があって「とにかく書き上げろ」とハッパをかけていたのだけど…。作家になるべき人だった』

告別式

『安らかな顔でしたね。テレビでも活躍してたけど、物書きとしての勝谷誠彦を評価してた。『月刊Hanada』にも『築地をどり』という勝谷誠彦じゃなきゃ書けないコラムを書いてもらってた』

『病気になって復活したら、勝谷のかつての切れ味がなくなった。トーンダウンしてた。病気じゃなかったら書き直させたけど…彼には言えなかった。酒も注意はしてましたけど、それはしょうがないです…』

『治る可能性があったんだから、せめて入院してからは飲まないでほしかったね』

宮嶋茂樹(カメラマン/文藝春秋時代からの相棒)

『言葉もないほどショックを受けています。ジャーナリストとして、取材対象にどんどん突っ込んでゆくのはもちろん、豊富な知識と勉強量を生かし、アンカーとして原稿をまとめる才能がすごかった。テレビのコメンテーターはまさにはまり役でした。兵庫県知事選のときは元気そうに見えたのですが。残念でなりません』

「太く短く、自分がやりたいように生きた」勝谷誠彦氏

通夜

『しばらくガセだと思った。自分の目で見て本当だと実感しました。相変わらず悪態をつくので安心してた。今日の日を予期できないくらい元気でした。私の方が先にいくと思っていた。』

『一言で言うと敵に回したくない人。優秀な人でした。勝谷さんが写真に興味を持った時は脅威を感じました』

『すごい取材力のある人。(一番思い出深い取材は)渡鹿野島(わたかのじま)の潜入取材ですかね。3日間くらいの取材だったんですけど、1日目が終わると「体調悪いんで帰るわ」と、私ひとりを残して尼崎の実家に帰ったんです。もともと風俗ライターで、潜入取材なんて水を得た魚のようになるはずだったのに、残された私はあとの2日間、針のむしろでしたよ』

告別式

『うつ病を経験されてから弱気な発言が増えた。いろんな立場の方と交遊が広いですよね。蓮舫さんからもお花がきてましたけど、蓮舫さんとは週刊文春時代に「美女図鑑」のグラビア取材したころからの付き合いで、マニラのスラムに連れて行って、燃え盛る火の前で撮影して泣かせたそうですよ。蓮舫さんが結婚した時も「なんで俺に断りもないんだ」って怒ってましたね』

柳沢健(ノンフィクション作家/文藝春秋時代の先輩)

西原理恵子(漫画家/友人)

田尾和俊(四国学院大学教授・株式会社タウン情報全国ネットワーク取締役副社長/麺通団団長)

『今朝、ケータイの着信音で起こされて出たら(正確には出ようとしたら切れたのでかけ直したら)、「勝谷さんが亡くなった」という連絡であった。

25年ぐらい前、私がタウン誌の編集長か社長をしていた時のある日、突然編集室に「勝谷誠彦」なる人から「お会いしたい」というFAXが届いたのが、私が勝谷さんとお知り合いになる最初のきっかけであるが(あの時に来たFAXと、その後何度かやり取りしたFAXはどこかに取ってあるのだが、今は探す気力がない)、その後のことは本人が亡くなっているのに私側だけからの視点でこんな日記に晒すわけにはいかん。

とりあえず、10日ほど前の11月19日(月)朝9時半頃、勝谷さんから電話がかかってきて、

勝谷「田尾さん、ゴーンさんが逮捕されたよ」
田尾「えーっ! 何でですか?」
勝谷「金の問題らしい」
田尾「陰謀ですか!」
勝谷「そうだろうね」

という会話があったのが最後になりました。あと、今年の6月頃始まったFM香川の『怒れるおっさんラジオ』は、11月5日に大阪で4本録りした分の最後の1回の放送が今度の日曜(12月2日)で、番組はそこで終了することになりました(3日に再放送があるんかな)。追悼のいろんなあれやこれやは全国ネットのいろんなところでいろんな有名な人やえらい人たちがやると思うので、私ごときはこれぐらいで。』

中川淳一郎(ネットニュース編集者/友人)

勝谷誠彦さんへの感謝 人との出会いで仕事人生が開けた実例

新田哲史(アゴラ編集長/心の師匠)

勝谷誠彦さん、享年57。我が心の師匠、永遠の旅立ち

花房観音(小説家/友人)

週末ヒロイン ももいろクローバーZ

会うたびに「君たちは元気でいてくれていいね。」って言ってくれてどんな時も私たちのことを応援してくれました。かっちゃんパパからは色々な事を教わり、芸能界のお父さんのような存在でした。今、凄く凄く寂しいです。これからも皆のことを見守っていて下さい。
ご冥福をお祈りいたします。

週末ヒロイン ももいろクローバーZ

高城れに

『かっちゃんパパが…。信じられないくらい驚いた。かっちゃんパパは『病気治して、またライブに来るからね』と言ってくれていた。天国に旅立ってしまったけど、天国から私たちのこと応援してくれてると信じて、私たちも頑張れたらいいなと思います』

玉井詩織

『前から応援してくださっていて、10周年ライブにも足を運んでくださった。お元気そうな姿を見てたのですごいショックです。テレビで見てると辛口で怖いってイメージでしたが、私たちと会うと毎回、優しい笑顔で『いつも頑張ってるね』と言ってくれた。私たちが10代のときから応援してくださって「みんなが成人したら、焼き鳥屋に飲みに行こう」と誘ってくれたんです。かなうことはなかったんですけど、いつも私たちのことを気にしてくれてた』

『これからも見守っててね。今までたくさんのことを教えていただいてありがとうございました』

加藤浩次(極楽とんぼ/「スッキリ」MC)&宮崎哲弥(評論家/良き理解者)&阿部祐二(テレビリポーター)

加藤浩次(以下、加藤)『10年くらい僕、一緒にやらせてもらって。いや「57歳は若いよ」ってホント思ってしまうんですけど、宮崎さんは僕なんかよりずーっと長いこと勝谷さんと仕事されてたことありますもんね』

宮崎哲弥(以下、宮崎)『この方は学生時代から放送作家のような仕事をなさっていて、当時「学生をやりながら仕事をしている」っていう手記を集めた本を出されていて、私は「あっ、こういう生き方ができるんだ!」って教わってこういうこの”評論家”みたいな世界に入ってきたっていう側面もあるので、1歳しか歳は違わないですけど「先輩を亡くした」っていう感情を持っています』

宮崎『非常にね、コメンテーターとしてはね、割とこう”極論”を言ったり”暴言”とも世間では取れるようなことを話したりして、どちらかというと自分を悪者にして、世の中に考える素材をポーンと投げるような、そういうコメンテーターだったんだけれども。なかなかね、今のような世の中になってしまうと、そういうことも難しくなってきているのかなという気がしますね…』

加藤『いやぁ僕が印象的なのは、ホントに番組の中では何も忖度せず、思ったことははっきり言う。「これは言論の自由だから俺は言いたいことを言うんだ」ってことをとはっきり言って、どんなバッシング浴びても、実際にスタジオでテリー(伊藤)さんと口論になったりすることもあった。でも、それでも自分の意見をしっかり言う勝谷さんがいて』

加藤『僕はご飯食べに行ったことがあるんですけど、二人きりで。その時の優しさというか…「(穏やかな口調で)ねぇ加藤君、何飲みたい?」とか…』

宮崎『繊細な人だったでしょ?』

加藤『はい、すごい繊細でもう「(穏やかな口調で)この日本酒美味しいから飲んでみな」とか。で、僕は勝谷さんを失いたくない、番組から失いたくないから「勝谷さん、もうちょっと興奮しないで、勝谷さんの言ってることは間違ってないから、もうちょっと分かりやすく言ってくれませんか?」ってことを「後輩ながら言わせてもらいます」って僕が言ったら「(深く納得した様子で)あぁ、そうだね。わかったわかった」ってうん、言ってくれるんだけど…次の週からまた興奮して言う…これはある種、宮崎さんが仰ったように、敢えて偽悪的に…』

宮崎『うん!』

加藤『…自分を見せることによって、やってるっていう。だからホントに「コメンテーターとして僕はずっといてほしかった」っていう部分はあったんですけれど…う〜ん…』

宮崎『世の中的にはそういうコメンテーターとしてはそういう風にやって、多分ご本人が一番やりたかったことって「小説を書きたかった」と、小説をもっと…』

加藤『書かれてましたよね!』

宮崎『…書かれてましたけど、もっともっと書きたかったんだろうという風に…あっ、あとニューズレターを、ずーっと有料のニューズレターを出されていて。これ、毎日書かれるんですよ。「これはすごい出力だな!」という風に思いましたけどねぇ』

加藤『そうですよねぇ。阿部さんもずっとまぁ我々と一緒に仕事してきましたけど』

阿部祐二(以下、阿部)『勝谷さんは大学が一緒なんですよね。ていうことで、僕は先輩なんですけども、リスペクトしてくれたのをよく覚えてます。僕はやはり仕事はリポーターですよね。リポーターですから、あるところまでの情報提供が仕事なわけです。僕のその先をやってくれていたなというイメージがあります。僕がその先までやりたいところを、やってくれていたことを非常に印象的に覚えています』

加藤『「事実関係間違えたくないから現場では阿部さんどうなの?」っていうのはよく聞いてましたよね?』

阿部『よく聞いてましたよね。その先を考えてましたよね、勝谷さんは』

加藤『実際に最近お会いされたんですよね?』

阿部『はい、数ヶ月前に飛行場のラウンジで会いました。勝谷さん番組やられてたんですけどね、「ウチの番組に出てよ」なんていうことを気軽に話してくれたことを覚えています。僕はまさかこんなねぇ…元気そうだったですよ…』

加藤『うーん、これ宮崎さん、お酒ですよねえ。お酒が悪いというわけではないですけど…』

宮崎『敢えて勝谷誠彦風にコメントするとするなら、私は「酒をずっと飲み続けて、自死に近い死だった」と…思います』

加藤『うーん…わかりました…はい。でもホント残念だなぁって思いますねぇ。大事な方を亡くしたという感じですねぇ』

テリー伊藤(TVプロデューサー/「スッキリ」で共演・舌戦)

『勝谷さんは世間にいつも怒ってましたけど、一番は自分へのジレンマ、怒っていたのは自分自身にじゃないか。すごく才能がある人。何で俺の才能を買ってくれないんだ、何で自分の意見が通らないという中で、うまくそれを表現できない。後半はそういう人生だったのかな』

『お酒もそうなんですけど、うつになってつらい思いを抱えていた。“戦友”なんでさみしいね』

おおたわ史恵(内科医/「スッキリ」で共演)

『皆さん「怖い」ってイメージあるかもしれないけど、ものすごい繊細で、甘えんぼで、子供っぽいところのある人。傷つきやすいんだろうな、と思っていました』

辛坊治郎(株式会社大阪綜合研究所代表・ニュースキャスター/「たかじんのそこまで言って委員会」副委員長)

『誰とも似ていない稀有な存在感の人でした。ご本人は全力で生き切ったのだと思います。心からご冥福をお祈りします』

田原総一朗(ジャーナリスト/「朝まで生テレビ」他で共演)

『勝谷氏とは考え方は違ったけど、とても人柄がよく人懐っこい方で何度もご一緒していただいた。勝谷氏が撮ってくれた妻との写真がとても良い写真でずっと家に飾っているし、妻が亡くなった時に何度も使わせてもらった。勝谷氏の温かい人柄が伝わる写真だと感じていた。こんなに早くに亡くなるとは残念だ。』

黒田有(メッセンジャー/「たかじんNOマネー」「カツヤマサヒコSHOW」で共演)

『(カツヤマサヒコSHOWに)芸人として初めて呼んでもらったと思うんですけど、過去のことをほじくってもらって、ありがたかったのが記憶に残ってます』

『皆さんのイメージは凶暴な方なのかもしれませんけど、すごく気を使われる方だった。でも、僕の人生の中では、ああいう方のほうが優しさを持ってる方が多いです。たかじんさんも勝谷さんも、いい意味でも悪い意味でも強がる方で、わざと誤解を受けるような言い方をしてたけど、僕はあれは美学だと思いますね』

『お酒のイメージはそこまでないんです。食事がメインで、政治や外交の話を感情的に言ってくれるので勉強になりました。太く短く生きられた方。我々にもインパクトを残してくれました』

若一光司(作家・画家/「ムーブ!」「あさパラ!」で共演)

『悪がる、強がる…でもサシで飲んでる時は、繊細な、複雑なくらい繊細。言葉悪いですけど、とてもかわいそうで…かわいそうな感じがします…』

夏目三久(フリーアナウンサー/日本テレビ時代に交流)

『10年ほど前、勝谷さんが朝の番組を担当されていて、私が昼の番組で、メークルームにオンエアを終えた勝谷さんが走ってこられるんですね。ガハハと笑いながら気さくに話しかけてくださって、さーっとメークを落として帰っていかれる』

『あんなに元気だった勝谷さんが…と思うと本当に信じられないし、残念でなりません。勝谷さん、どうぞ本当にゆっくりとお休みください』

デーブ・スペクター(コメンテーター/番組共演)

『頻繁にお会いする時期があった。異色な論客で頭がいいんですが、変わったことをいつも言っていて、へぇーと周りが驚かれた時も多くてですね。途中から残念ながら仕事ができなくなった具合になったんですが、ちょっと早いですよね。残念です』

深澤真紀(コラムニスト/番組共演)

『何回かお仕事させていただきましたけど、場を盛り上げる華のある方で、急なことで残念です』

白井文(元尼崎市長/尼崎市立七松小学校の同級生)

『昔から、言葉遣いなど同じ年とは思えないほど成熟していた。私になりきったような言葉遣いで発言のアドバイスを送ってくれた。いろんな役を演じられる賢い人だった。回復していると信じていたのに…せわしなく生きた人だったから、ゆっくり休んでほしい』

小川洋子(作家/早稲田大学第一文学部の同級生)

『当時、田舎から出てきたばかりの私からすると、勝谷さんは服装が大人の男性の雰囲気で、大学の課題で書く小説なども洗練され、完成されていました。すごい才能を持つ憧れの存在でした』

『才能がありすぎて何でもできる人なので周りが放っておかず、色んなことを全部やったのだと思います。ただ、本当にやりたいことは小説なんだと話していて、私のことを認めてくれて文学の話をよくしていました。これから、腰を据えて小説が書ける年齢になっていくところだったので、とても残念でショックです』

中田考(イスラーム/私立灘中学・高校の同級生)

百田尚樹(作家/勝谷誠彦 『ディアスポラ』解説他)

高橋洋一(経済・数量政策学者/「たかじんのそこまで言って委員会」等で共演多数)

上念司(経済評論家/「ニュース女子」MC・「カツヤマサヒコSHOW」ゲスト等で共演多数)

倉山満(憲政史研究者/「カツヤマサヒコSHOW」「chくらら」で共演)

勝谷誠彦さんのご冥福をお祈りします

朝起きたら、勝谷誠彦さんの訃報が飛んできました。

日付が変わった深夜にお亡くなりになられたそうです。享年57歳。

勝谷さんにはchくららで嘘だらけシリーズを出すたびにご出演いただいていました。

晩年は御病気で大変そうでした。

ご冥福をお祈りします。

岸博幸(慶応大学大学院教授/「ニュース女子」「たかじんのそこまで言って委員会」等で共演多数)

須田慎一郎(ジャーナリスト/「ムーブ!」「ニュース女子」「たかじんのそこまで言って委員会」等で共演多数)

DHCテレビ「ニュース女子」より

『僕、同い年なんですよ。で、結構付き合い古くてですね、一緒に関西の某テレビ局出入り禁止になったことあるくらいの。ABCっていう番組なんですけどね。えーまぁ仲なんで』

『えー、本当に天才でした。やっぱりね、僕にとってもね「この人にだけは敵わないな」っていう人が何人かいるんだけども、1人は武田先生で、もう1人は勝谷さんでね』

『やっぱりテレビに出るために生まれてきたというのかな。やっぱり申し子ですよ。頭の回転もね。その一方で、そういう人ってやっぱりナイーブというか繊細なんですよ。凄くね。あぁ見えても、一緒に出ている慣れてない私なんかに対して、フォローしてくれた。番組が進行している最中にもフォローしてくれたし、始まる前、終わった後も「ここはこう言うべきだよ〜」とかね、或いは番組進行してる最中でも「須田さんのその意見、凄く良い」とかね。こういう人だったんだよね』

『ただ、やっぱりあの、なんていったら良いのかなぁ、あれだけ激しい人だから、よーく人とぶつかって、敵を作る。だからその真意っていうか、本当にその心の奥底を知れば優しい人なんだってわかるんだけれども、やっぱりあれはキャラを作ってたところがあったかなぁという点で、その誤解が解ければ良いなぁと思っていたんですけどね』

安田隆之(ブロガー「殿下」)

『最近はあまりNPに書かないが今日だけは別。書かずにいられない。

20年ほど前。当時流行り始めた「ネトウヨ」界でわたしが「殿下」と呼ばれていたことを知るひとは少なくなった。当時その呼称をネットで広めたのが勝谷さんだった。同学年で同じ関西出身ということもあって勝谷さんとはそれ以来の友人だった。

ひとづてに「回復途上だ」とも「あまり具合が良くない」とも聞いていた。共通の友人から彼の突然の訃報を聞いて愕然となった。勝谷さんとの20年の思い出が蘇ってきた。仲間とともに勝谷さんの取材旅行に同行したこともあった。彼の自慢の軽井沢の別荘で大騒ぎしたこともあった。勝谷さんの紹介で当時「月刊Will」編集長だった花田紀凱さんの知遇を得て同誌上に二回ほどルポを書いたこともあった。取材の仕方を教えてくれて推敲までしてくれた。「殿下の文章には独特の迫力があるねえ」と褒めてくれた。勝谷さんが主宰してNYTに北朝鮮拉致被害者の救出を訴える全面広告を出したことがあった。その英訳という大役を任せてくれたのも勝谷さんだった。

よく酒を飲むひとだった。よく本を読むひとでもあった。移動中はいつも飲むか本を読んでいた。付き合ってみると繊細でサービス精神の溢れるひとだった。ボンボンらしく他人を疑わぬ純情なひとでもあった。政治に絡む箴言は辛口だったが日本酒の紀行文は行間から酒の薫りが漂ってくる優しくも馥郁とした文章を書いた。露悪的なところがあってTVなどで見かける過激な右翼的発言は「職業右翼」としてのサービス精神のなせる技。「田嶋牛」と揶揄していた田嶋陽子さんのことを「かわいげもあるねん」と言っていた。10年前の正月に神戸でわたしの妹と三人で会って食事をしたときに酔っぱらって人妻の妹をナンパしようとした。悪いおっちゃんだった。

あまり公にはしてなかったが離婚した奥様との間のお嬢さんのことを酔って語る勝谷さんの寂しそうな眼差しをわたしは忘れられない。きっと心残りだったろう。兵庫県知事選に出馬したことが勝谷さんの死期を早めたことは疑いない。他人を疑わぬ純粋な勝谷さんを唆した取り巻き連中をわたしは心から憎む。

わたしのことを名前ではただの一度も呼ぶことなくずっと「殿下」と呼び続けていた。元気になった彼と思う存分右翼ネタに花を咲かせたかった。少し甲高く「殿下ぁ~」と呼ぶ声が蘇る。すごく悲しいです。』

二階堂豹介(二階堂ドットコム)

合掌

やはり持たなかったか。。。いつも会うたびに奢ってもらってたなあ。最初に会ったのは15年前だったかな。不定期的に飯食ったりしてたねえ。
大阪でキャバクラいったりね(笑)

ご冥福をお祈りします。まぁ好きなように生きたんだから良かったんだと思うよ。

追悼

問い合わせと言うかお誘いというかがあるのですが、私は勝谷さんの葬儀には行きません。

闇の人はどこまで行っても闇なので表には出ません。

かっちゃんは長年、俺の立場をよくわかってくれていたから「こんな辛気くさいのこなくていいよ」って言うことでしょう。

かなりの変人だったしまいど酒ばかり飲んでた。でも最近は、自分でワイン頼んどいてほとんど飲まなかったな。

9月に会う予定を私の体調不良でひとつキャンセルしてしまったので、最後に会ったのは初夏のカレー屋。「アジャンタ」だった。

思えばあのとき、初めて「俺たちの関係をネットにかけばいいよ」と言ったんだよな。

かっちゃんは、もうその頃から死が近づいてることをわかってたのかもな。

久保仁(サンテレビ編成局次長/「カツヤマサヒコSHOW」プロデューサー)

『勝谷さんは読書量がすごかった。その上で、ゲストの魅力をどう引き出したら良いかを知っていた。書くことも大好きでした。本当にもったいない』

榎木麻衣(サンテレビアナウンサー/「カツヤマサヒコSHOW」アシスタント)

松本ともこ(ラジオパーソナリティー/「ストリーム」パーソナリティ)

井出隊長(ミュージシャン&ラーメンライター/勝谷誠彦「明るく楽しい兵庫県」テーマソング:ああ兵庫県)

有田芳生(参議院議員/意見広告7人の会

堀潤(ジャーナリスト)

飯田浩司(ニッポン放送アナウンサー/「ザ・ボイス そこまで言うか!」アンカーマン

ニッポン放送「飯田浩司のOK!Cozy Up!」より

『さぁ、今日はこの話をしなければなりません。コラムニストの勝谷誠彦さんが昨日亡くなられたと。享年57ということが発表されました』

『昨日の確かに番組のですね、終わりかけぐらいのところで「ネット上で相当騒がれているな」ということは見えていたんですけれども、ちょっと確定報が打てずにですね。でも確かに私の中で祈るような気持ちはあって「誤報であってほしいな」というふうに思ってました』

『あの、やっぱりね、読売の渡辺恒雄さんの話とか、先ほど上柳さんも話されてましたけども、人の生き死にに関することってのは慎重の上にも慎重でなきゃいけないっていうのはね、思っていましたんで、確定打てないというところで昨日はエンディングを迎えたわけなんですけれども』

『私は「ザ・ボイス そこまで言うか!」というニッポン放送夕方4時からやっていた番組、2012年の1月にスタートして、その第1回のコメンテーターが勝谷誠彦さんでした。で「ザ・ボイス」という番組で2016年の3月の末まで、4年3ヶ月にわたってですね、ずっと毎週月曜日ご一緒しておりました』

『まぁ〜本当にね、ニュースについてももちろん熱く語る人でもありましたが、同じかそれ以上の熱量でですね、ももいろクローバーZであったりとか、或いは地元が尼崎でいらっしゃいますから阪神タイガースについても非常に熱く語ってました』

『最後にニッポン放送に出演されたのが2016年3月28日の「ザ・ボイス」。ちょうどですね、この年のシーズンが開幕した直後だったので、オープニングこんな話をしたんですね』

勝谷誠彦(以下、勝谷)『あぁ!タイガースの優勝と日本一をこの場で皆さんと一緒に喜べないのが、それが一番私は辛いですなぁ!』

飯田浩司アナ(以下、飯田)『ハハハ』

勝谷『いや、だけどさぁ、明るくなったと思わない?』

飯田『いやぁ、なんかベンチがねぇ』

勝谷『ねぇ!』

飯田『あの、ルーキーが打った後に皆でハイタッチなんて、良い光景ですよねぇ』

勝谷『あれはやっぱりあの〜アニキの、金本さんの性格なんですかね。いろいろ人間関係、OBの文句とかがあってね、劇的な変化って全然できなかったじゃないですか。それはねぇ、和田さんが悪いんじゃないんだけど、今から思えば和田さんの時は暗かった』

『いやぁ〜そうなんですよ。この日のオープニングで「今日が最後なのっ!?」っていうのをまず聞いて、で、「いやぁ最後ってことは阪神の優勝を皆と分かち合えないのが本当に悲しいんだ」と(笑)いやあの「最後は笑って別れるんだぜ?」っていうふうにね、言っていたのが本当に印象的で。だから……オープニングこういう話すると多分、勝谷さんに怒られるんですけどねぇ…』

『いやぁ、あの、書くのにこだわる人でね、本当に…言葉にこだわる人でした、何しろ。ご自身、小説家を目指されていて、で、週刊文春に入って、ずーっと、もう言葉の一つ一つを磨きかけるということに執念を燃やしてらっしゃった方で。だからボイスでずーっとご一緒してた時も常々言っていたのは「俺の発する言葉っていうのは、そのまま文章になる。そのまま本になる」。それぐらいだから、元々言葉に対して常に磨きをかけ続けていて、それを発露していたっていう。本当、言葉にこだわる方でした』

『で、言葉にこだわるというとですね、今日の新聞では「辛口」「辛口」っていうふうに出てましたけど、ご本人これを本当に嫌ってたんですよ。「辛口じゃない」と。「俺は俺の思うことを世に問うてる」と。だから「自分は正論だと思うことを世に問うてるんだ」と。「それが甘口だろうと辛口だろうと関係ない」と。「俺は俺としてこういうものを出すんだ」っていうね、背骨が一つこう、背骨になんかこうシャキッとしてるようなものがあってですね』

『で、コラムニストっていう肩書きにも非常にこだわってらっしゃいました。「評論家じゃないんだよ」と。「俺は自分の思うことを世に問うていくコラムニストなんだ」と。で、「それをこう受け止めて、各々で考えてくれるのが一番良い」と。「それが民主主義ってものなんだぞ」っていうふうに凄く主張されていたのを思い出しますねぇ。57歳。いや、若過ぎる。ね。』

『天国で美味しいお酒をいっぱい呑んでいただければと思うんですけれども…えぇ〜本当に……あの……うっ…昨日のね、日テレの「スッキリ!」という番組で、宮崎哲弥さんが絞り出すように言っていた一言がね、「自死のような死だったんじゃないか」ということを仰っていたのが非常に印象的で、まだまだやってほしいこと、やるべきこと、いっぱいあったと思うんですけど「太く短く生きた」とご親族の方も仰っていました。謹んでご冥福をお祈りいたします』

プチ鹿島(時事芸人/「プチ鹿島&居島一平の思わず聞いてしまいました!!」等で共演)

YBSラジオ 「プチ鹿島の火曜キックス」より

プチ鹿島(以下、鹿島)『勝谷誠彦さんがね、57歳。お亡くなりになりました』

塩澤未佳子(以下、塩澤)『お若いですよねぇ、まだ』

鹿島『僕、実は2010年と2011年にイベントに出ていただいているんです』

塩澤『あぁ、そうですか』

鹿島『あの頃、居島一平と2人でね、”思わず聞いてしまいました!!”っていうトークライブをやってね。まぁ、いろんな方に出ていただきました。勝谷さん、山本太郎さん、村西とおるさん、貴闘力さん』

塩澤『おぉっ!あのイベント』

鹿島『あと上祐史浩さんにも出てもらいました。つまり、思想信条一切関係ないんです。とにかくこの人の話を聞きたい。もしくは自分の見立てを当ててみたい。「それってこういうことですか?」っていう、そういうコンセプトでやったわけです。だからまぁ、もう本当にいい意味でバラバラの人が1回1回出てくださったんですけど、勝谷さんは2回、出てくださったんですね』

塩澤『へぇ〜!』

鹿島『というのも僕は2000年代アタマですかね?これもメルマガで書いたんですけど。なんでこういう話をしているかというと、2000年代って森喜朗さんに対する加藤の乱とか、あとは田中康夫さんの長野県知事選。僕、長野出身ですから「えっ、田中康夫さんが長野県知事選挙に出る!?何かが変わるかもしれない!」っていう、まぁ、野次馬感とワクワク感があった。で、勝谷さんがそれにすごく噛んでいたというか、担ぎ上げていた。応援していたんですよ。で、その日記をずーっと2000年ぐらいに公開されていて』

塩澤『えぇ』

鹿島『で、僕は知らないで辿り着いて読み始めたら面白くてね。で、勝谷さんは2007年ぐらいからかな?今から10年ぐらい前から有料のメールマガジンを…勝谷さんご自身は「有料配信メール」と言っているんです。つまり「あなたに個人的にあてた有料のメールですよ」っていう。「メールマガジン」っていうと公になっちゃって、そこでの発言の責任って問われるから。悪い意味でね。だから「これはあなたに個人的にあてた有料配信メールですよ。だったら好きなことを書いていいよね?」っていう”てい”で。まぁでも、そういうメルマガなんですね』

塩澤『はい』

鹿島『それがね、毎朝2時、3時に起きて、朝8時ぐらいには5000字以上のものが来るわけですよ。それを勝谷さん、20年続けたわけですよ。結果的に。だってそうでしょう?2000年頭、1999年ぐらいから日記を。だから、思想信条とか発言とか、僕は全てに賛同はできないけど、その姿勢が「すげえ人だな」ってずっと思っていて。もともとはだって、お酒の……今回もお酒が原因だって言われていますけど。お酒をめぐる旅とか旅行の紀行文とか美味しいものとか、そういうライターで身を立てていこうって考えていた人で。ご本人も仰ってましたけども』

塩澤『へー!』

鹿島『だけど、森喜朗さんがあんなことになったから、おかしな人が出てきたから。「こういうの、いいのか?」っていう政治方面のコラムを書き始めたんですよ。だから僕、勝谷さんにお会いした時に「勝谷さんを世に出したのは森喜朗ですよね?」って言ったら、ご本人も笑ってらして。だからそういうことを約20年ですよね。「あ、こういう切り取り方があるんだ!」とか……だから何度も言いますけど、全てに賛同はしませんよ。発言とか考え方とか。でも「こういう切り口があるんだ、こういうことを考えているんだ」っていう、そういうのを毎日5000字ぐらい』

塩澤『大変な作業ですね…』

鹿島『それが1年365日ですよ』

塩澤『毎日?お休みなし?』

鹿島『正月も関係ない。で、みんなの出勤時に合わせて朝の8時ぐらいまでには。だからすごいじゃないですか。これを1日も休みなくやっていた。そこはスゴイなと。で、やっぱり何千人、何万人ぐらい会員がいたんでしょうね。そこで週末とかに毎週、本を紹介しているんです。で、影響力もあるんでしょうね。すぐにAmazonとかでランキングが上がるんですよ。で、僕の本も実は紹介してくださったことがあって。で、新聞の時事ネタの本とかも送ったら「あぁ、鹿島くん。いい金脈をつかんだね」とか「時事ネタのおさらいができるいい本だ」って。うん』

塩澤『嬉しいことを…』

鹿島『意外と。だからね、お礼メールを出すじゃないですか。「すいません、ありがとうございます」って。で「実は今日、大阪に行くので、がんばります」と。勝谷さん、地元が関西だからね。そしたら「あぁ、じゃあ関西だとここの立ち飲み屋さんに行ってごらん」とか教えてくれたりしてね。だからまぁ、いろいろとその発言が取り沙汰されたりとか、そういう面もあるけれども。なんかやっぱり1対1ではあったかい人だったですね。で、僕はあの時に本当に「金脈をつかんだね」って書いてもらったのが本当に自信になったんです。うん……』

塩澤『勝谷さんに言ってもらうっていうことはね、大きいですよね』

鹿島『うん……』

塩澤『もっと、あれですね。話ができたらよかったですね。そしたら…』

鹿島『……(消え入るような声で)そうですね……』

塩澤『思い出すこと、沢山ありますもんね。でも、そうやってメールを通して、その後もお付き合いがあったっていうことですね』

鹿島『……(消え入るような声で)まあ、本当に自信をいただいたんですよね……うん』

塩澤『それが、今に繋がるっていうことですもんね』

鹿島『……いや、本当にありがとうございます。ということです、はい』

居島一平(米粒写経・「虎ノ門ニュース」MC/「プチ鹿島&居島一平の思わず聞いてしまいました!!」等で共演)

『勝谷誠彦さん、お亡くなりになっちゃいましたねぇ。まだ本当に60代を迎えられていない、50代のお若さでね。一読者としても本当に残念なんですけども』

『実はですね、私ごときですが過去にトークライブでね、東京の新宿で開催させていただきましたトークライブで何度もね、ゲストとしてご登場いただいたり、あるいは勝谷さんのご著書にそのトークライブの一部をね、収録していただいたりという、過去にお世話になったことがございまして』

『本当に陰ながら、ご冥福をお祈りしたいと思います。本当にもったいない方でしたねぇ。残念です』

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KJインプレッションズ〜追悼・勝谷誠彦さん(2018.11.28)

今朝、勝谷誠彦さんの訃報が届いた。高橋ヨロンさんのツイートや前日の配信メールの内容で嫌な予感はしていたが、それでも暫くは信じられなかった。

『勝谷誠彦の××な日々。』をいつ頃から読み始めたのかも覚えていないが、さるさる日記時代を含めかれこれ10数年間に渡ってほぼ毎日、勝谷さんの文章を読んできた。それなのに突然の最終回が訪れ、あまりにも空虚な読後感を抱えたまま1日を過ごした。

遂に直接お会いすることは叶わなかったが、何度かメールでやり取りをさせていただいたことは、大切な思い出である。

自らを”電波芸者”と蔑んで、関西人らしく笑いを振りまいたかと思えば、荒ぶる憎まれ役を演じてみせるメディアでの姿は象徴的だが、何に於いても両極を知って中道を行く方だったように思う。

けれども、本質的に真面目で繊細で気遣いと心配りの人であったが為に、鬱病を罹患したこともアルコールに溺れたことも、もしかしたら必然であったのかもしれない。

一応書いておくと、自分は勝谷さんの行動や言動、考え、その全てに共感を持っていたわけではない。番組を降板するたびに「あぁ、またやったのか…」「なんで迷惑をかけた共演者やスタッフに”ありがとう”や”ごめんね”を言わないんだ」「それどころか後ろ足で砂をかけてやがる」と見ていて腹が立つこともしばしば。

青山繁晴さんや辛坊治郎さんや橋下徹さん等、面識も関わりもある方について、挑発したり貶めるような発言をするのも「わざわざ余計なこと言うなぁ」と呆れて見ていた。自分を彼らと対等か、それ以上に見せようとして。きっと勝谷さんにとって、本当はとても気になる存在だった筈なのに。

裏付けの取れていない情報や根拠の乏しい情報を飛ばした時にも、せめて異なる事実が判明した時には謝罪や訂正をしていれば、一部の方からこれほど嫌悪されることもなかった筈だ。

他人に厳しく自分に甘い側面も感じていた。自分の非を素直に認められない子どもっぽさにガッカリすることもあった。小説を書かなかったことは”逃げ”だ。もう、悪い部分を挙げればキリがない。

それでも、勝谷誠彦という人を深く敬愛していた。

勝谷さんが「変な人」であることは確かで、おそらく脳神経の構造に異常があったのではないかとも思う。人物や物や事象に対して、その本質を見抜く感覚の正確さと応答速度は素人目にも尋常じゃなかった。

そして、それ以外の感覚は間違いなく狂っていた。感覚のチューニングが合っていないということではなく、そもそも感覚の種類が良くも悪くも異なっていた。その上知識は多岐にわたって膨大な量を誇り、それらを駆使して生み出される勝谷さんの言葉は唯一無二の存在感を放っていた。

良く言えば天才肌。悪く言えば狂気の破滅型か。

勝谷さんの言葉を通して見えてくる世界は、普段の自分が見ている世界とは異なって見えたし、それを話したり書いたりする勝谷さんを見るのも面白く感じたものだ。

そんな情感と知性に富み、斬れ味は抜群に鋭く、美しささえ感じられた勝谷さんの文体が、鬱病、復帰、そして兵庫県知事選の敗北と、少しずつ、けれども確実に壊れて行く様子は、読むたびに悲しさを伴った。今思えば、文体の変化はご本人の健康状態を表していたことだろう。

最初の入院後、何度かメールを送ろうと言葉を紡いだ。けれども、送信ボタンを押下することはできなかった。心のどこかで「それでも勝谷誠彦は死なない」「必ず復活するだろうから、今はまだ関与しないでおこう」そんな気持ちがあった。自分が何を言ったところで、勝谷さんの生き様に影響を及ぼすことはない。それならば勝谷さんの物語を、読者としてできるだけ外で見ていたかった。

今となっては高橋ヨロンさんやT-1君ら近い人に、危機を脱するまでは勝谷さんの意思を無視してでも”今この瞬間を乗り切る方法を取るべきだ”とメールを送っておけばよかったと、少しだけ後悔している。それで何かが動いたとは思わないが、このやり場のない悲しみを少しは和らげられたかもしれない。

何事においても当事者というものは”絶対的な最善”を目指して”絶対的な最善策”を選ぼうとするものだ。この場合は「勝谷さん本人が断酒を誓って、自ら治療に専念してもらう」というものだった。けれども、自分を含む多くの日記の読者は「いやいや、まずは拘束してでも酒を飲ませず、肝臓と脳機能を回復させることだろ!」と心の中でツッコんでいたことと思う。

勝谷さんが亡くなる数日前、高橋ヨロンさんのこのツイートを読んだ時に、嫌な予感がした。高橋ヨロンさんはきっと、勝谷さんが読んでいることを知りながら、叱咤激励の意味を込めたアイロニーのつもりで書いているのだろうと思いはしたが、「これって勝谷さんの精神状況によっては”背中を押すこと”にならないか?」と危惧したのだ。身近な人たちは気づいていなかったのかもしれないが、日記の読者は気づいていた。知事選以降の勝谷さんは「本気で死にたがっている」と。今朝の「スッキリ!」で宮崎哲弥さんは「自死に近い死」と言ったそうだが、まさにその通りだと思う。

もちろん、高橋ヨロンさんやT-1君、元奥さんの献身は理解しているつもりだし、それを超えて壮絶であっただろうし、責める気など一切ない。ただ、そう思いながら何も行動しなかった自分が悔しいのである。

それはともかく、そんな自身の大病から死に至るまでさえを含めて「勝谷誠彦の日記」には読者として様々な擬似体験をさせてもらった。「勝谷誠彦の番組」では本当に色々な世界の景色を見せてもらった。ある意味で「勝谷誠彦」をオモチャにして遊ばせてもらった。面白がらせてもらった。愉しませてもらった。それは、自分の人生の一部であり、宝である。

勝谷さん、今までどうもありがとうございました。
そちらの皆さんと、思う存分に日本酒を嗜んで下さい。今頃、ご両親と三宅久之さんにこっぴどく叱られているのだろうなぁ。先に逝った鴨志田穣さんとはアル中談義に花を咲かせていることだろう。やしきたかじんさんとは、遺してきたパートナーのことについてゴニョゴニョ(笑)

きっと勝谷さんご自身はこちらで、天皇の新たな御代を少しでも生きたかったであろうし、東京五輪や大阪万博に行きたかったであろうし、すべての拉致被害者の方々が帰国される瞬間や北方領土と竹島と尖閣沖が日本の主権下に戻る瞬間を目にしたかった筈だ。何よりも2人の愛娘の結婚や、パートナーとの老後の新生活も楽しみにしていたことだろう。

自分もまだまだ硬軟取り混ぜた勝谷ワールドを見せて欲しかった。「天国のいちばん底(テンソコ)」の結末を知りたかったし、もっと多くの小説を読みたかった。あるいは大転換期にある北陸に知恵を貸していただきたかったし、北陸の日本酒ももっと呑んでいただきたかった。

その全てがもう叶わないこと。
本当に残念でならない。

心より御冥福をお祈りします。